春の季語『花見(はなみ)』
その中での人間模様などを詠むのが花見の俳句ではないでしょうか。滑稽な一面や切ない一面などいろいろな場面が思い浮かびます。季語としてはとても使いやすいものかもしれません。
さて、実はソメイヨシノは江戸時代後期に交配によって作られた花なんです。ですから大昔の花見は梅の花の下で行われていたそうです。
『桜狩(さくらがり)』『花の宴(はなのえん)』『花見酒(はなみざけ)』『花筵(はなむしろ)』も同様の季語です。
※太い文字は季語です。
季語『はなみ』の俳句と鑑賞
みな袖を胸にかさねし花見かな 中村草田男
鑑賞:大俳人の一句です。観察の俳句です。
「花見の宴会にいる人達がみんな袖を胸のあたりに重ねていた」というわけです。花見のシーズンと言えば『花冷え』という季語もあるようにまだまだ寒かったりしますから、そのようにしていたのでしょうか。はたまた「胸」という言葉は「心」のような意味もありますから、桜を見てそれぞれの感慨があったのかもしれません。「胸」という言葉が「花見」と響き合っているように思います。
「みな」というのは一瞬だったのかもしれません。でもその一瞬を俳人の目はしっかり捉えていたわけです。
天才に少し離れて花見かな 柿本多映
鑑賞:花見にはいろんな人が来ています。そりゃ天才だって花見くらいするでしょう。たまたま天才と一緒に花見をしている場面です。
ポイントは「少し離れて」ではないでしょうか。近すぎず、遠すぎず、少し離れて花見をしているわけです。話したいような、話せないような、そのようなふわふわした心理状態が見えてきます。それは花びらのような心地だったのでしょう。そういう意味でここに描かれた心情と花見は響き合っています。
また、『桜』という花は学校に繋がりが深いものです。そのことと「天才」は響き合っていますよね。
「花見」と「天才」という組み合わせが秀逸です。
このように言葉と言葉が反響し合うのが俳句の醍醐味(だいごみ)です。
こういうのは深読みしすぎと思いますか?いいえ、こういう想像が俳句を読む楽しさなんです。みなさんも自由に想像して見て下さい。
花見にも行かずもの憂き結び髪 杉田久女
鑑賞:さて、この句は花見に行っていない一句です。花見に行ってないのに俳句になるの?と思われる方もいるかもしれませんが、全然構いません。花見に行ってないという状態もまた季節を表しているからです。
なにかあったのでしょうか?花見に行かないで憂鬱な気分で髪を結んでいるという一句ですね。「結び髪」というのはお出かけ用の髪型ではなく、無造作にまとめただけのヘアスタイルのことです。憂鬱な気分で髪も適当にして悶々としているのでしょう。その姿と「花見」が合わさると「春の出会いと別れ」に想像の手が伸びていきませんか?
こちらもどうぞ