冬の季語『節分』『豆撒き(まめまき)』
『鬼は外』『福は内』
と声を上げながら行うことはご存知かと思いますが、それらも季語であることも覚えておいてください。元々、豆撒きはその年の干支(えと)に当たる年男(としおとこ)が行っていましたが、現在ではそれに関係なくみんなが豆をまき、邪を追い払って福を呼び込もうとします。これらも春を迎える前の風習です。
また、豆は年齢の数より一つ多く食べるという風習があります。
『節分』『節分会』『豆撒き』『年男』『福は内』『鬼は外』『鬼やらひ』これらが季語になります。
季語『節分』『豆撒き(まめまき)』の俳句と鑑賞
節分の豆少し添へ患者食 石田波郷
鑑賞:患者食と書かれてあることから舞台は病院だとわかります。季節の行事とあまり関係のない入院生活ですが、節分の豆が少し添えられていた。そんな句になります。
俳句はいつでもどこでも作れます。なぜなら季節感がないと思うような場所にも日本の風習は少しずつ染み込んでいますし、季節だってきちんと移り変わっているからです。
さて、この句だけを読むと少しコミカルな感じもしますが、石田波郷という大俳人は結核で闘病に苦しみ続けた俳人でもあります。それを踏まえると急に悲しい俳句に見えてきますよね。
わがこゑののこれる耳や福は内 飯田蛇笏
鑑賞:「ゑ」という難しい字が書かれていますが、今の言葉でいうと「え」になります。わかりやすく書き直すと
「我が声の残れる耳や福は内」
です。この『や』という切れ字に注目してください。切れがあるとその前の部分が強調されますから、『耳』が強調されていることになります。こじつけかもしれませんが、「ゑ」という字はどことなく耳の形に似ていませんか?文字の形も鑑賞することも俳句の楽しさの一つです。
「福は内」と声をあげたところ、その時の自分の声が耳に残った。という句ですが、この句の形が上手いです。我が声の~ではまだ何の言葉かはわかりません。最後を読んで「あ、福は内か」と理解します。その時点で考えがもう一度「我が声の」に戻りますよね。今の言葉で言うとループしています。
「鬼はそと福はうち」は何度も連呼しますから、このループが上手に機能しているわけです。もし「福は内」が最初にあるとループにはなりません。
また、どうして「福は内」という自分の声が耳に残ったのか。それはこの人が普段は大きな声を出さないからでしょう。年をとると大声なんて出さなくなります。久しぶりに豆まきではしゃいだお父さんという感じがかわいらしいですよね。
鬼やらひそれから誰もゐなくなる 西村葉子
解説:「鬼やらひ」というのは「鬼やらい」のことで「豆まき」のこと。「ゐ」は「い」と読みます。
豆まきをすれば誰もいなくなった。
という意味の句ですが、豆まきではなく「鬼やらひ」ですからね。鬼を追い払ったら誰もいなくなった。つまり、みんな鬼であった。というような意味にとれます。ちょっと怖いような。人間の存在を穿った(うがった)かっこいい一句です。
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