夏の季語『梅雨(つゆ)』

夏の季語『梅雨(つゆ)』

解説
5月下旬ごろから7月にかけて、日本は雨の多い季『梅雨(つゆ)』に入ります。1ヶ月以上も雨の多い季節になります。一種の雨季ですね。

メカニズムとしては北方のオホーツク海気団と南方の小笠原気団がせめぎ合うことによって停滞前線が形成されることから起こるそうです。

いずれにしてもジメジメして鬱陶しい時期ですね。外に出るのはどうしても億劫になりがちです。ちなみに『五月雨(さみだれ)』も梅雨のことを指していました。昔と今では月がずれていたというわけです。

さて、『梅雨』は『つゆ』とも『ばいう』とも読みます。『梅雨前線(ばいうぜんせん)』という言葉は聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

梅雨の始まりの頃を『走り梅雨(はしりづゆ)』終わりの頃を『送り梅雨(おくりづゆ)』、終わりかけてまた降る雨を『戻り梅雨(もどりづゆ)』そのほか『梅雨空(つゆぞら)』『梅雨曇(つゆぐもり)』などとも言います。

※太字は全て季語です。

季語『梅雨(つゆ)』の俳句と鑑賞

どっちみち梅雨の道へ出る地下道 池田澄子

鑑賞:少し破調の句ですね。破調というのは五七五のリズムではないことを言います。『梅雨』を『つゆ』と読むと

どっちみち/つゆのみちへで/るちかどう

と変なところで切れてしまいますし、『梅雨』は『ばいう』と読むと、

どっちみち/ばいうのみちへ/でるちかどう

と最後が六音の字余りになってしまいます。しかしこれも梅雨という季語のジメジメした鬱陶しさ。すっきりしない感じがあって雰囲気が出ているのではないでしょうか。このように句の形態と句の意味を深読みするのも俳句の鑑賞ではよく行われることです。

ところでこの池田澄子という俳人ですが、僕は大好きで句集も何冊か持っています。この句もわかりやすくて素敵ですよね。

雨のかからない地下道といえど、結局は外に出ないといけません。そこは梅雨なわけです。「どっちみち」という言葉のあきらめのような感じに味わいがありますね。「どっちみち」「梅雨の道」で韻を踏んでいるところも見逃せません。

長梅雨の0が出てゐる電算機 佐野典子

鑑賞:長梅雨と言われるといかにも気分が沈みます。いつまでもすっきりせず雨ばかりですからね。

そんな中、電算機(計算機より大きな業務用のものでしょうか)がゼロを表示している。

電算機の世界。今で言うパソコンの世界はスッキリとしています。どんなに複雑な計算も割り切れる世界です。しかも表示されているのはゼロ。ジメジメ鬱陶しい季節とすっきりした世界の対比の句ですね。

また、この句においても長梅雨という時候の言葉に対して、電算機のゼロという具体的なものを持ってきています。天候や時候など大きなものには小さなものを持ってくるというのは俳句の基本でもあります。

やや晴れて来て梅雨深しとぞ思ふ 後藤比奈夫

解説:面白い発見の一句ですね。少し晴れてきたからこそ梅雨の深さを思うという意味です。

少し晴れたということは、それまでの雨の長さを思うわけですよね。そして次はいつ晴れるのだろうか?と思うわけです。だからこそつかの間の晴れを感じて梅雨の深さを思ったということですね。

俳句では「思う」というような言葉はあまり好まれません。だって「思う」からこそ書いたのであって、思ってないものは書けないから、つまり当たり前のことだからです。

しかしこの句の「思う」は梅雨の空を見上げてる感じが出ていて成功しています。

吊皮にごとりとうごく梅雨の街 横山白虹

解説:電車にしろバスにしろ、吊り革に捕まって外を見ていたのでしょう。もちろん動いたのは自分の乗っている乗り物なのですが、雨の中を歩いてきてやっと乗り込んだからか、町の方が動いたように見えた(感じた)ということですね。

梅雨の街というのは雨に煙っていてどこかいつもと違うように見えます。そのせいもあるのかもしれません。「ごとり」という擬音が不気味で効果的です

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