新年の季語『手毬(てまり)』
江戸時代中期以降に流行したそうですが、お正月の遊びとして好まれ、そのため新年の季語になっています。
同じように『手毬唄(てまりうた)』も季語ですし、動詞では『手毬つく』として使用します。
季語『手毬』の俳句と鑑賞
手毬唄かなしきことをうつくしく 高浜虚子
解説:大俳人である高浜虚子の一句です。「手毬唄」だけが漢字であとは平仮名で表記されていますから、優しい印象を受けます。
「悲しきこと」というのは何だと思いますか?最近は「手毬唄」を聞くこともあまりないですが、実は手毬唄の歌詞は悲しいことも多かったようです。そこで手毬唄とかなしきことを~~が響き合っているわけですね。
もちろん、これを知らなくても十分素晴らしい句だと思います。
悲しきことを楽しくとは書いていませんね。悲しきことを美しくと書いています。
子供たちの手毬唄を「楽しそう」ではなく、「美しい」ととらえたのがこの句の素晴らしさだと思います。
つまづきし如く忘れし手毬歌 橋本多佳子
解説:意味はシンプルです。
「まるで何かにつまづいたように手毬歌は忘れてしまった」
という感じです。手毬歌は子供の遊び。それを忘れたということは歳をとったということなのですが、歳をとることって何かにつまづいただけのようなことでしょうか?違いますよね。もっと色々なことが詰まっているはずです。しかし、こう詠まれているということは作者はそのように感じているということです。
おそらく、もう若くはないのでしょう。振り返ると一瞬の出来事だったという意味が込められているように思います。
ところで、このような「〇〇の如く」というパターンの俳句は失敗が多いと言われています(「〇〇のように」も同様)。俳句を初めて間もない頃によくやる失敗が「(季語)のごとく~~」としてしまうパターンです。季語を別の言葉に喩え(たとえ)なおすというのはあまり良くありません。
喩えられないほどのイメージを包容しているから季語であり、それをあえてイメージを限定することは失敗の確率を上げるからです。
昼の空いよいよ碧き手毬唄 森澄雄
解説:昼の空が碧(あお)い。青ではなく碧です。「紺碧(こんぺき)」の碧です。読み方は「あお」ですが、より深く緑がかった「あおいろ」だとされています。
そしてこの「碧き」は昼の空にも手毬唄にもどちらにもかかっているようにとれます。
普通の文章ならどちらかはっきりさせないといけないところですが、俳句ではこのようなテクニックもありです。空と「碧」を共有することによって手毬唄が空の奥まで吸い込まれていきそうな印象を受けます。
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