春の季語『霞(かすみ)』
どちらも同じものですが、俳句の世界では『霧(きり)』は秋の季語。『霞(かすみ)』は春の季語として定義されています。この季語は句を少し幻想的な世界にしてくれます。
『春霞(はるがすみ)』『遠霞(とおがすみ)』『朝霞(朝霞)』『昼霞(ひるがすみ)』『夕霞(ゆうがすみ)』も季語としてよく使われます。動詞では『草霞む(くさかすむ)』『霞棚引く』『霞立つ(かすみたつ)』などがあります。
※ちなみに、時刻的に夕方以降に起こる同様の気象減少は『朧(おぼろ)』と言って、これも春の季語です。
季語『霞(かすみ)』の俳句と鑑賞
雛を手に乗せて霞の中を行く 飯田龍太
鑑賞:高名な俳人の飯田龍太の作品です。雛(ひな)と読みます。意味的には
雛鳥(ひよこでしょうか?)を手に乗せて霞のの中を進んでいく。もしくはそのような人がいる。
ということですが、霞の中は視界が悪いですからどこか夢の世界のようでもあります。手の上の雛鳥だけが現実性を帯びているわけで、そのあたたかさや些細な動きだけがこの世との唯一の繋がりのような不安感。
また、わたしはひよこを想像したので霞の白とのコントラストも美しいなと感じました。
煎餅割つて霞の端に友とをり 藤田湘子
鑑賞:この句は少し破調です。破調というのは五七五のリズムが少し崩れていることを言いますが、この句の場合、
せんべいわって、かすみのはしにともとおり
という具合に読みます。「煎餅(せんべい)割って」という最初の五音(上五)が七音になっていますが、一気に読みましょう。これはこれでリズムがあります。
さて、この句の意味は「お煎餅を割りながら霞の端に友達といる」とこれだけの意味です。しかし、霞の端というのはどういうところでしょうか。霞にも端っこはあるはずですから論理としてはおかしくありません。が、自分が霞のどのあたりにいるかを意識するかどうかと言われれば普通はしませんよね。
おそらく、この友との関係が薄らいでいるんじゃないでしょうか。例えば友達はもうこの世にいないとか。この世とあの世の境界として「霞の端」という言葉に託されているような気がします。
遺書書けば遠ざかる死や朝がすみ 相馬遷子
鑑賞:相馬遷子(そうませんし)の作品です。
遺書書けば遠ざかる死や…(ここが切れ)…朝がすみ
切れ字の「や」がありますから、どこで切れているかはすぐにわかりますね。「遺書を書けば書くほど死ねないものだなぁ。外は朝霞の世界だ」というような意味です。
朝霞というくらいですから、早朝ですよね。一晩中悩み抜いたのかもしれません。ここでも死後の世界と現実がテーマになっています。
この句の場合「朝がすみ」という平仮名表記(ひらがなひょうき)に注目してみましょう。
「朝がすみ」→「朝が済み」とも受け取れます。「もう朝が終わった」というような。こじつけのようですが、このようにすることで色んな深読みを誘うことも俳句ではよくあります。また、深読みすることも俳句の鑑賞の楽しい部分でもあります。
なんども言っているように俳句の鑑賞は自由ですから。
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