秋の季語『秋思(しゅうし)』

秋の季語『秋思(しゅうし)』

解説:古来、「もののあれは秋こそまされ」と言い、「心づくしの秋」ともいわれます。事に寄せて、物を見て秋の物悲しさに誘われる感じですね。人間存在の哀れさ、人生のはかなさ淋しさの物思い。秋は人間心理の陰翳(いんえい)を深めることの多い季節とも言えるでしょう。

同じ意味の季語に『秋淋し(あきさびし)』『秋あはれ』などもあります。

例句:

秋淋し綸を下ろせばすぐに釣れ 久保田万太郎

鑑賞:「綸」は「いと」と読みます。釣り糸の意味を持つそうです。もちろん、これはわたしも調べました。難しい字があるからと言って俳句を読むのが難しいことはありません。ネットで調べるとすぐにわかる時代ですから、どんどん活用しましょう。

さて、この句の意味は?「秋は淋しいものである。釣り糸を垂らせばすぐに(魚)が釣れてしまうのだから」このような意味ですね。釣りをする人にとってすぐに釣れることは本来なら嬉しいことです。でも、この時はそうじゃなかった。なんとなく寂しいような気持ちがした。それは?そうです。それこそが秋思の正体なのでしょう。なんとなくもののあわれを感じてしまう。この句では簡単に釣られてしまう魚が秋思とよく響き合っています。

爪切れど秋思どこへも行きはせぬ 細見綾子

鑑賞文:意味は簡単ですね。「爪を切っても秋の寂しさはどこへも行かないものだなぁ」というような意味です。爪を切るという行為は日常的でどちらかと言えばさっぱりする行為です。切った爪は自分の肉体を離れてゴミになります。

しかし、内面に広がる秋の寂しさや侘しさ(わびしさ)は爪のように肉体を離れてはくれないというわけです。爪を切る時の格好。特に足の爪を切る時の背中を丸めた姿がより秋思を引き立たせています。

「秋思」といえば

私は秋の内面をえぐり、現す季語と思います。秋はなぜ、儚い寂しい俳句が多いのでしょうか。別に俳句を詠まなくても、そんな感傷に浸る人が多いように思います。

では、秋がなぜそのように感じやすいのかを考えてみました。秋の前は夏。夏の暑さは人の感情を、熱狂的にさせます。海水浴や山登り、キャンプにアウトドア、フェスなどその要素はほかの季節と比べものになりません。自然に親しむ季節でもあり、肌を露出させながら自然に近い姿で人は密接に夏という季節に触れていきます。

秋はどうでしょうか。ひんやりとした冷気が夏の暑さを忘れさせ、無邪気に夏と接していたにもかかわらず、人は一枚、また一枚と服を着て寒さから逃れようとします。それはまるで、秋という季節を拒絶するようでもあります。

やはり、人間は自然を平等に扱いたいのですが、夏と秋ではそのギャップがあまりにも大き過ぎます。それは、夏であっても、食欲の夏、味覚の夏、レジャーの夏、イベント盛りだくさんの夏であるわけで、秋だからといって特別扱いする必要ないわけです。

そういった意味で、心の奥にある思いだけは、秋に申し訳なく思う気持ちが湧き出します。それを表現できるのは言葉であって、詩や俳句などといった、同じような要素でできている音で儚さや寂しさを表現するしかないのだと私は思います。

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