秋の季語『曼殊沙華』
季語の解説:ヒガンバナ科の多年草。秋の彼岸のころに畦や堤、墓地周辺などに、群がって咲く。また毒性があることから土中の動物からの被害を防ぐために畦や土手に植えられたとも言われる。
中国から渡来。花茎の長さは30センチほどで、その先に真紅の花を輪状に咲かす。
『彼岸花』『死人花』『捨子花』『狐花』『幽霊花』
例句:
つきぬけて天上の紺曼珠沙華(山口誓子)
秋は「澄む」季節です。何事も透明感を増す季節です。ちなみに春はぼんやりと霞(かす)む。夏は滴(したた)る。冬は枯れる。
俳句における四季はそのようなイメージなのですが、秋は澄む。だからこそ『天高し』なんていう言葉もあるんですね。そんな空の青と真っ赤な曼珠沙華のイメージが鮮烈な名句です。
真っ赤な曼珠沙華の下からのアップ。バックは空の紺。素晴らしいですよね。
そして少し問題になったのですが、「つきぬけて」は紺にかかるのか、それとも曼珠沙華なのか?
恐らく、その両方にかかっているのだろうと言うのが大方の考えです。
空の紺もつきぬけたように青い。曼珠沙華の赤も突き抜けたように朱色だ。
まるで数式のように「つきぬけて」が2つのものにかかっている。これは俳句ならではの考え方ですね。普通の文法ではなく、詩、ですから、自由に想像していいんです。言葉のイメージを組み合わせて楽しむことが俳句の一番の楽しみ方です。
もちろん、ここに書いてあることが正しくはありません。みなさんの心に広がったイメージが正解です。
例句:
曼殊沙華狐の嫁入りに灯しけり(溝口素丸)
鑑賞文:今もそうしている方々がいらっしゃるかもしれませんが、昔は祝宴(結婚式)を夕方から夜にかけて行われていました。ですので、その足元を照らす明かりが必要になります。曼殊沙華のその赤さは妖艶であり、ぼんやりとした灯だったことに違いありません。
そのほうがますます神秘性を増して、人でなく狐(もののけもしくは、人に化けたもの)とぴったり雰囲気が合うのではないでしょうか。
曼殊沙華といえば
田んぼの畦や堤防、神社、お寺や墓地とあちらこちらで咲く花ですが、実はこの花、昼の顔と夜の顔を持っているように思います。
昼間は気持ちよく風にそよがれながら清々しい姿で、人々の心に安らぎや癒しを与え、群生している姿はまさに圧巻。見る者を魅了し元気づける勇ましささえ感じさせてくれます。
それが夜になると静寂の中に、昼間の姿とは一変します。何かしらこの世の姿ではない、どこかぼんやりとした異次元な風格を持ちつつ、凛として微塵も揺るがない信念のようなものを灯している感じがします。
わずか30センチほどの背丈の花なのに、お彼岸の頃に咲くイメージが強いせいか、どこか死後の世界を感じさせる秘密めいた気持ちにさせます。それは一本、立っているだけで充分です。そのまま静かに目を閉じると、心の眼には怪しげな霊気を羽織ったものが襲ってきて、油断しているとぐわんと見る者の心の中にその存在感を押し付けながら、その者の心を違う世界へとさらっていきそうでもあります。
また、夜の風景では、墓地周辺で群生して艶やかに咲く花びらが、一枚一枚刀のようです。その刀で切った人の血を吸って、赤々しさが月光に照らし出されたような怪しげな真紅のゆらめきを放っているようです。
曼殊沙華は、この世とあの世を行き来を案内する道しるべが、本来の役目でもあるかのような花です。その花をずっとたどっていくと、いつのまにか天上に導かれ、妖艶な世界へといざなう不可思議さを持つ花だとも私は感じるのです。
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